contents

サイト内検索
時事刻々の最新記事
活動記録の最新記事
おらんくBARの最新記事
access counter
  •  

    • 3389現在の記事:
    • 369233総閲覧数:
    • 55今日の閲覧数:
    • 470昨日の閲覧数:
    • 2981今週の閲覧数:
    • 6703今月の閲覧数:
    • 198216総訪問者数:
    • 39今日の訪問者数:
    • 247昨日の訪問者数:
    • 1551今週の訪問者数:
    • 3377今月の訪問者数:
    • 216一日当たりの平均訪問者数:

  •      

    政治家としての私の道


    初登院・初国会

    「国のために役立つ政治家になりたい。」その志を持って、平成2年2月18日、皆さんのご支援により衆議院 議員に初当選しました。当時32歳であり、国会では2番目に若い議員として、本会議場の最前列の左から2番目の議席をいただきましたが、戦前戦後を通じ て、数多くの代議士がこの席に座って、国事を議論し、国政を決定してきたかと思うと、身の引き締まる思いがしました。

     定数512人中、 510名の先輩議員に囲まれ、緊張した毎日でしたが、私も地域から代表として出てきた国会議員であり「有権者が私に期待したものは何か。」高知県の有権者 から選出された意味と責任の重大性をひしひしと感じ、いつまでもこの日の気持ちを忘れずに頑張っていこうと決意したことです。


    初質問

    人に会うこと、話すこと、会議に出ること、国会の動き、すべてが勉強の毎日でした。そんな中、私は、所属する地方行政委員会での初質問の日を迎えました。 奥田自治大臣に対して、「私は、豊かなふるさとを作るため、ここで質問するためにやってきました。」と切り出したところ、大臣から、「念願がかなっておめ でとう。」と激励され、委員会は大爆笑に包まれました。

     大臣の配慮で肩の力も幾分抜け、山村過疎問題、地方交付税、補助金のあり方を質 問しましたが、「政治は、幅の広い、奥の深いところだな。世を動かすには、もっと大きくならねばならない。」と感じたのが第一印象でした。自治省幹部の巧 みな答弁、野党からのヤジ、報道記者の厳しい視線、速記者の一言一句記録する筆の音、緊張と焦りの中で、与えられた30分間は、あっという間に終わってし まいました。委員会終了後、それまで知らなかった委員長から、「大変立派な質問だった。」とお褒めをいただき、昼食をごちそうになりました。

     このころは、米ソ冷戦の終焉という世界情勢の大きな変化が起こっていました。日本の地位、役割も国力の増大によって地球規模になっており、新しい時代に即した日本に変えて行かねばならないと、自問自答する毎日でした。

     「時代は、時代に遅れるものに罰を下す。」と言いますが、できるだけ多くの政治家に会って、その哲学や政治力を学び、これからの日本の進むべき道を探りたいと考えていました。


    夢見る力が政治を変える

     日本の政治は、自民党の長期政権、万年野党の構造的体制などによって、完全に制度疲労を起こしていました。公私の峻別、政治と金の利権構造、官僚支配の政治といった中で、政治家は、もがき苦しんでいました。

      そんな中、「失われた政治の信頼を回復したい。」と、与野党の立場を超えた若い1年生議員が中心となり、数多くの勉強会を立ち上げました。政権交代可能な 選挙制度への改革・首相公選制度・国会改革・政治家の在り方など、政治の基礎となる考え方を連日、夜の更けるまで議論しました。

     皆が時 間を忘れあつい思いを語る中、「政治家は、国民の夢を実現する為に行動する仕事であり、現実の政治に埋没することなく、あくまでも理想の政治を実現するた めに、勇気と正義を強く持つことが大事だ。」と自らの信念を固めて行きました。政党の垣根を越えて本音で激論を交わし、肝胆相照らした議員達は、今、各政 党のいろんな分野でリーダーとなって活躍しています。


    小選挙区制度の導入

     国会でも、「現行の政 治制度を変えるしかない。意識を変えるには、形を変えることである。」と、民間人や政党間の多くの議論の中で出た答えが、中選挙区から小選挙区への選挙制 度の変更でした。この制度が良かったのか悪かったのか、まだ結論が出ていませんが、このことによって自民党が分裂し、一時期、野党となり、多くの政党が誕 生し、政権の座に着き、現在も政界再編の途上です。与野党の政治の体質が変化したことは、改革の大きな成果であると思います。


    自民党の下野

      平成5年6月、宮沢内閣不信任案の成立による衆議院の解散以降、自民党の一部分裂が引金となって、政権奪取のための政党の離合集散が続きました。細川連立 政権、羽田政権。野党となった自民党にとっては、原点に立ち返り一から解党的出直しをするいい機会であり、私自身も天から与えられたチャンスであるとの認 識から、有権者の立場で、じっくりと一から勉強し直そうと考えました。

     原点は、「土佐の山河にあり。」高知の山村や漁業の現場、農作業 のハウス、集荷場の仕事場に行き、そこで従事している人たちと共に作業し、しんどさ・つらさ・喜びを身を持って体感し、そしてじっくりと意見を聞かせてい ただきました。故郷を考え、自己を見つめ、自分としても大いに勉強になる期間でした。

     そして平成6年6月。誰もがびっくり、自民・社 会・さきがけ三党による村山政権の誕生です。この村山政権において、初めての政務次官である国土政務次官に就任し、全国総合開発計画・国の危機管理の在り 方・防災政策・地方と国の連携の仕方や協力できる体制の整備に充実に携われたことも、私にとって大きな勉強でした。


    連立政権でまとめ役

      平成8年11月、自民党の国防部会長に就任しました。この国防部会は、党として国に必要な安全保障政策を議論し立案する場所であり、厳しいタカ派の議員が 政府の対応にハッパをかけ、応援してくれる場所です。しかしながら、自社さ連立政権のため、防衛問題は、連立政権のアキレス腱であり、社会党本部と政策議 論をし、纏め、決定して行かなければなりません。

     このため、防衛予算、阪神大震災における救援策やPK0問題・沖縄の米軍問題・日米安保問題、全ての面で対極的な議論の中での取り纏めは、難航を極めましたが、とことん話し合えばなんとかなるものでした。

     村山総理は、国会の本会議場で、自衛隊も、日米安保も、PK0もその必要性を認め、大きな政策転換をしましたが、安全保障政策では内閣の顔を立ててほしいと言われたことも何度かありました。

      今、振り返れば「よく連立が崩壊しなかったな。」と思いますが、国民的な視点において、自衛隊が、まさに国民的信頼を得て、期待に変わっていった転換点で あり、このような重要な時期に政権維持の要として働かせていただいたことは、大変うれしく、また政治家としての自信にも繋がりました。


    対人地雷の廃絶 ノーベル平和賞を受賞

     自分の理想への大きな前進は、自民党国防部会長当時に、対人地雷廃絶のため、自民党の責任者となって総理や外務大臣・防衛庁に強く働きかけたことです。これは政治家としての判断に基づいたものですが、国防部会長という立場上、かなり勇気のいった行動でした。

      きっかけは、平成4年にカンボジアを訪れた際、たくさんの地雷で足を失った人達を病院や町で見かけたことでした。対人地雷は悪魔の兵器と呼ばれており、人 を殺すのではなく、生涯その人を苦しめる傷を負わすので、彼らは苦しみを抱えたまま生計を立てなければなりません。この地雷は、現在も64カ国で1億 2000万個埋まっており、毎月2000人以上の死傷者が出ています。この対人地雷の残忍性は、人類の平和達成に対する障害であり、世界からこのような悲 惨な兵器を廃絶しなければならないと考えたからです。

     国会において超党派で議員連盟を作り、NG0と連携し精力的に活動した結果、日本 は議定国として対人地雷禁止条約に署名し、国会での承認を得ることができました。後日、この国際的な運動は、ノーベル平和賞を獲得しました。これからも地 雷廃絶を徹底し、世界平和への貢献に向けてさらに努力を続け、自分の信じる理想を追い求めて行きます。


    加藤の乱

    私が森内閣において自治総括政務次官を勤めている最中、「加藤の乱」は起こりました。造反有理。いち早く日本の将来のために構造改革を断行しなければなら ないと、国民の期待に応えることのできる新しい政権を作るため、加藤絋一氏が内閣に不信任を表明し、公然と退陣を要求したのです。

     加藤 氏と行動をともにすることを決意した私は、大臣に辞表を提出し、平成12年11月20日、翌13年3月5日の内閣不信任案の本会議採決をともに欠席しまし た。これは、自民党の体質改善と自浄能力を発揮したいという一念からでした。政治は、現状の中で不安に思っている国民に勇気と希望を与え、将来の安心感を 提供しなければならないと思っています。私も代議士としてこの意志と必要性を国民に伝えるために、今回、あえて森内閣不信任案に欠席しました。今、変わら なければ、何も問題点は改善されない。そのことが分かっていながら、変えることの出来ない状況を打破するために、まず、自分達が変えていく努力をすべき だ。いや、自分達が勇気を持って変わって行かなければならない。それは、人から言われるのではなく、自らが行動しなければ・・・。と思い決意を固めて行動 しました。

     残念ながら、政治を動かすことはできませんでしたが、森内閣は退陣に至りました。

     大事は小事の積み重ねであり、決して志を失うことなく、これからも真っ直ぐに行動して行きたい。と改めて誓った時でもありました。


    新たなリーダーを求めて

      平成13年4月、「政治を良くするには、いい内閣を作るしかない。国民心が通じる政権を作りたい。」私はその一心から、田中眞紀子氏、加藤紘一氏、山崎拓 氏などと共に、小泉純一郎総裁の誕生をめざし総裁選挙を全力で戦い抜きました。当初は、自民党の組織選挙や派閥の行動で、誰も小泉氏が当選できるなどとは 予想もしませんでしたが、選挙戦が始まると、国民の声が自民党員を動かし、政治を動かし始めました。それは、街頭に立ったとき、ひしひしと伝わってきまし た。「派閥や権力や古いしがらみに縛られずに行動してほしい。」足を止めて演説を真剣に聞いてくれている人々から、そんな声が聞こえました。この総裁選 は、「自民党の政治を変えろ!」「日本を変えよう!」という国民、党員の切なる気持ちが反映された歴史的なものすごいものでした。

     結果は、小泉氏が圧勝し、日本中の期待と注目を集めた小泉総理の誕生です。

     私は、前年の加藤政局以来、信を曲げずに、何とか自民党を変えたいと頑張ってきた努力が実り、本当にうれしく、政治を変えるのは、信念に基づく夢見る力だと確信しました。


    防衛庁長官に就任

    人生とは、予告のないドラマであり、自分が防衛庁長官になるなんて予想もしていませんでした。政治家として、誰に誉められようとも誰に感謝されようともなく、ただひたすらいい国を作りたいと必死にやってきました。

    そして、気がつけば防衛庁長官に・・・。小泉氏から、閣僚に任命されたのです。

    全 く突然でしたが、これは人生の挑戦として受け入れようと思いました。多くの先輩やこれまでお世話になった人達に心から感謝し、そして、派閥の推薦や順送り ではなく、私を指名してくれた小泉首相に敬意を表し、その期待に絶対に応えたい。また閣僚として、これまで自分が考えてきた自分ならではの仕事をしてみた い。という思いで就任しました。
     

     就任記者会見では、抱負として、有事や危機に際しては機敏に行動できる国民に温かい自衛隊を作ること、世界から尊敬される国際貢献のできる国家を目指すために、全力を尽くすことを表明しました。

     そして、就任から4ヵ月後の9月11日、皆さんの記憶にも新しい米国での同時多発テロが発生し、この日を境に私の毎日は激変しました。

      テロ対策特別措置法案、不審船対策のための海上警備行動対処の改善、秘密漏えいを防ぐため防衛機密指定、そして有事法制と、我が国の安全保障上の問題や法 整備を処理しなければならず、その対応のため連日連夜の作業の連続で、国会での答弁回数・質疑時間も共に防衛庁としては記録ずくめでした。本当に毎日が有 事でした。

     また、多くの国とも防衛首脳会談を実施しましたが、中でもラムズフェルド米国防長官とは日米防衛首脳会談を実施するため、三 度にわたっての会談となりました。最初の会談はペンタゴンで行われ、国防長官に笑顔でお迎えしていただき栄誉礼を受けましたが、両国の国旗が掲揚され国家 が演奏されている間、緊張のあまり目まいがしてきて、足がふらつきました。必死でふんばり、事なきを得て、長官と二人だけのプライベート会談に移りまし た。同氏は68歳でしたが、最初の就任が43歳であったため「私も現在43歳だ。」と言うと、「私の娘は42歳だ。」と言ったので、「それではお父さんの ような存在だ。」と言うとお互いが大笑いでした。小泉政権の「おそれず、ひるまず、こだわらず。」の改革政審も説明しましたが、彼も「改革をすることは、 おそれる心と、それを恐れる勢力との戦いだ。」と、彼自身の哲学も聞かせていただき、本当に和やかなよいプライベート会談でした。この時の一番の成果は、 ラムズフェルド国防長官との人間的関係ができたことであり、この信頼関係をもって、今後もしっかりした日米関係を築いていけると確信しました。

     この時の二人の記者会見は、CNNで世界同時中継され、日米安保の信頼の向上に寄与できたものと思っています。

      平成14年10月1日、栄誉礼を受け、蛍の光の中で防衛庁を後にする時は、政治家として万感胸に迫る思いでしたが、国民の信頼の基、国民のために働くこと のできる「あたたかい自衛隊」、世界の国々から頼りとされ、「尊敬される自衛隊」を目標に、精一杯の努力で多くの思いを形にすることができ、心よりうれし く思っています。


    これからの道

     政治家に必要なものは、信念と勇気、清新さとビジョンです。政界 や社会の汚濁に染まらずに、常に感覚を研ぎ澄ませ、筋を通して、人間として光り輝いていくには、まず、自らを律することです。「欲望や従来の習慣に負け て、手を抜かないこと。人間としての原点と普通の人の感覚を忘れないこと。」これが私がこれまでの経験で得た信念であり、基本です。

     こ れから、まず、私がしなければならないことは、経済のデフレ不況の脱却です。そのために、新しい仕事を創世すること、人々が住むところと働く場所を奪われ ないようにすることです。デフレや恐慌という、とてつもない国家の大きな不安や混乱を克服するには、徹底した合理化と無駄の見直しも必要ですが、国として の大きな経済再生プランが必要です。時流に流されて、途中で投げやりになり、時代の批判をして改革の精神も失って行くよりは、改革の流れを作り出し、生き 抜いていく気概を持って、政府が再生計画と国家目標を示し、国民と企業が勇気と大志を持って努力するしかありません。

     日本を再生するに は、戦後の社会システムを作り変える必要がありますが、この原点は、憲法です。日本国憲法の民主主義と基本的人権、国民主権、これは戦後の国家の基本とし て大切にしてきたものですが、問題は、従来の経済循環システムが機能できなくなっていることです。真の自由社会を構築し、欠乏からの自由、恐怖からの自 由、言論からの自由、信仰の自由を保障するために、新しい国の基本を再確認し、至らないところは見直しをしなければなりません。

     社会保 障や社会福祉のあり方、国や自治体の責務など、国富の社会配分の基本を改革しなければ、国や地方の借金が増加する一方で、このままでは財政が破綻し、その 債務は子供や孫の世代のものになってしまいます。できるだけ行政や社会サービスのための財政負担は簡素にすべきであり、国民の福祉や医療の社会負担を軽減 しなければなりません。持てるものと持たざるものの格差を是正し、社会保障に対して、国家としての責任や義務の関係をもう一度議論し、新しい社会の状況に 応じた社会契約に基づく福祉システムを構築し、次世代に安心できる反映と自由が保障された社会を引き継がねばなりません。

     政治家は、結 果として国民を幸せにするための政策を実現するために行動し、その先見性と度胸と人徳が必要です。学者は理想論を掲げ、評論家はその正論を唱え、国民世論 は正直に思ったことを言い、経済社会は情け容赦なく自由に拡大競争を続けます。しかし、政治家は、冷静に判断し、国民に職を生活の安定を与えるため、愚直 に行動しなければなりません。時代は大河のごとく過ぎて行き、過去と栄光にあぐらをかくものは、自然淘汰される運命にあり、日本も安閑としていられませ ん。

     また、国家の緊急事態における危機管理や有事法制などの国の安全保障政策もしっかりしなければなりません。21世紀の日本が、平和 で反映を続けていくためには、国の志をしっかり掲げ、国家国民を守ることを明確にし、日本人としての世界を考えた国家理念や人道主義を取り戻し、世界から 尊敬され、期待され、信頼される国になることです。

     人は、自分を必要としている人のために生き、多くの人に助けられて生きています。多 くの国のなかで、力強く生きていくためには何が原則で、どうあるべきなのか、人類の理想に向かって、日本は正々堂々、凛として、世界の中で主張し、評価さ れ、意義のある行動していかなければなりません。世界のために何ができるのか、人のために尽くすという誠の心を持ち、人類のために、人間として価値のある ことをなしうるとの認識で、日本の姿勢を示せるよう自信と責任を持って歩んで行くべきではないでしょうか。

    私のライフワークは、この世からき飢餓と戦争と人間の持つ醜い心をなくしていきたいことです。そのためにも今後ともさらに視野を広げて勉強し、世界の国々の紛争や混乱が起こらないように、日本の安全保障政策を考えていきたいと思っています。

     また、アジアにおいては、中国や北朝鮮との対話や交渉を重ね、東アジアの集団的安全保障機構を創設し、この地域において、二度と戦争を起こさないための話し合いや取り決めをして、東アジア全体の安定と経済の発展のために尽くすことのできる国家を目標にしていきます。

      憲法も、政治経済も、外交安全保障も、まず、何が日本の国益かを考え、国民と共に、そこから出発しなければなりません。国がしっかりしなければ、国民は幸 せになりません。それは、世界から尊敬される日本であること、人間として幸福な生き方のできる国を作り、世界を正しい方向に引っ張って行けるリーダーシッ プを持った国になることです。日本の政治家として、国家にとって、これから先の日本を考え、国民生活と、国土と地域の発展を考えていかなければなりませ ん。自由民主党がこれまで支持されてきたのは、地域にいる見識あるリーダーの皆さんの意見を大切にし、日本や地域を愛し、考えてきたからです。真に日本を 建て直すには、明日のために、今の厳しい状況を克服し、産業経済の体質を転換する必要があり、先進国もこのような厳しい時期を乗り越えて立ち直ったので す。

     私は、政治家として、これからもしっかりと将来を見据え、勇気と信念を持って全力で行動して行きます。


    蛤の話

    小泉内閣の所信表明演説で長岡藩の米百俵の話が有名になったが、我がふるさと高知でも似たような話があります。

      今から200年前、土佐藩主、山内家の執権野中兼山氏(小説、苑という女の父親)が、当時の土佐藩の功績に対し上方から恩賞に船いっぱいの蛤をいただいた そうです。それを荷揚げする時、地元の町民が蛤をいただけるのではないかとの噂を聞いて、港にたくさんの人が集まったそうですが、野中兼山氏はその人たち の目の前で、冷酷にも船頭にその蛤をすべて海に捨てよと命じて、積んでいた貝すべてを海に投げ入れたそうです。

     それをみていた町民たちは、「なんてもったいないことをするのだ。執権さんは、けちんぼでひどいことをする。」と言って怒ったそうですが、それからしばらくたってその浜辺では、たくさんの貝が取れるようになり、地元の住民は末永く蛤が食べれるようになったという話です。

     一時の今の幸せのため贅沢三昧をして、持っている食べ物を食べ尽くすより、将来末永く成長していく子供の代まで資源を大切にし、持続的に発展するために良く先を見た資源の配分、環境の維持、財政の運用をしなければならないことを教えてくれています。

      昔は、おじいさんおばあさんにものを粗末にしてはいけない、もったいないことをしてはいけないと教えられました。無駄はいけない。自分のことは自分でやら んといかん。人を頼ってもいかん。それが当たり前でした。でも、今は行政がサービスするのが当たり前。予算をとってこない政治家は力がない。隣町は温泉付 き集会所まであるぞ。町長は何をしているのか。住民は議員を突き上げ、議会は行政を突き上げることしきりです。

     かくして社会はばらまき 体質になり、日本は借金大国になりました。政治はいいことばかりばらまくのではなく、将来のことを考えて、押さえること、耐えること、我慢することを時と して言わなければならないときがあります。それは辛いことであり、わかってもらえないことであり、我慢しなければならないことでありますが、そんなことを しても効果がないとか、前より悪くなっているとか、国民に痛みを押しつけるとか、結果を焦って騒ぎ立てるより、じっとよくなるための努力をし、必死でこら え、頑張らねばならない時もあるのです。

     小泉内閣の改革はまだ緒についたばかりです。今すぐどうこう言える時期ではありません。お互い に頑張ろうではありませんか。問題は、明日のために今よりも厳しいことを我慢するかどうかであり、イギリスもアメリカもこのような厳しい時期を乗り越えて 立ち直ったのです。今の小泉内閣をつぶしてしまったのでは、もう日本ではこの国を救える内閣はなくなるでしょう。我々も、しっかり将来を見据えて、全力で 頑張らねばなりません。与党も野党もありません。改革に参加するかどうかの問題です。


    靖国神社参拝について

    私は8月15日に靖国神社に参拝します。私たちは、今、こんなに豊かで平和な日本に住んでいます。この平和と繁栄は、かって国のために戦い犠牲になった人た ちの尊い犠牲の上に成り立っていることを忘れてはいけない。現在の平和で繁栄した日本に生きる一人の日本人として、過去に戦争で国のために命を懸けて戦 い、祖国の繁栄と故郷や家族の幸せを願いつつ亡くなられた人々に、心からの哀悼と感謝の念を表したい。

     これは、一般的な日本人の先祖を 大切にするということ、国を思いながら、不幸な死を遂げた人々を弔うという自然な思いからくるものであり、別に特定の宗教を礼賛したり、軍国主義を願った り、近隣諸国に対抗するものでなく、過去、不幸な時代に国のことを重い慎んだ人々に対する労わりの気持ちに他ならない。(だから、千鳥ケ淵にも、寺院に も、教会にも、そのような人がまつられていたら、お参りをする。)8月15日に参拝することは、もう二度と悲惨な戦争によってこのような悲劇を起こさない ことを心に誓うとともに、中国や韓国などの同じアジアに住む人たちとも、力を合わせて平和を守っていくこと、故郷や愛する人のもとに帰ることを願いつつ亡 くなられた人たちと心から向き合い、本当に大変な思いをしながら亡くなられた人たちの悲しい気持ちを決して無駄にしてはいけないということである。

    平和を守らなければならないと同時に、この国を守るために、死んでいったかけがえのない人々の気持ちを大切にしていきたいと思います。